書道のコラムです。


書道コラム

以下はリベラル派の学生Aとその先輩Bの会話である。

A: これほど情報が簡単にやり取りできる時代に、書をやる意味というのは何なのでしょう。

B: そもそも情報の伝達のみを目的とするならば、きれいな文字を書くということすら必要でないはずです。それでも2,000年近くの歴史が書にはある。逆に問いますが、その理由は何だと思いますか。

A: やはり、筆を日常的に使っていたということが大きいのではないでしょうか。もう筆を日常的に使うことがなくなって久しい現代において、書は廃れるのではないですか。今は書の人口の大部分を高齢者が占めていて、終焉は迫っていると感じています。

B: 実用のための書、これは限界があります。どのような理由をつけても、筆を用いる道理がないのです。書をやるというのは、今日の雨を眺むということ。

A: 書と雨にどのような関係があるのでしょう。

B: 自然というものは本当に不思議です。これほど恐ろしいのに、果てしなく美しいのは、その理由がわからないまでも、何か意味があるのではないかと勘ぐってしまうのです。書の追究は、美しさの追究に同義です。人間が美しいとおもうものは、おおよそ自然を源としています。ここに人間の、そして世界の本質があるのではないかと思っています。

A: 確かになぜ自然を美しくおもうのかというのはわからないことです。ただ、その本質に迫るというのは大変難しそうですが。

B: 梵我一如という考えがありますね。日本の空海が伝えた、密教にも見られる考えですが。自らを小宇宙とし、大宇宙と一体となること、これを悟りとする、というものです。密教ではその大宇宙を大日如来という仏様であるとしていますが。

A: 大学の講義で触れた気もしますが、難しくてよくわかりません。

B: 大日如来というのは、各人が人と繋がることで情報網が生まれ、それが創発を起こした存在、全人類が生み出した、上位の集合知であるというように、私は解釈しています。尤も、私は専門家ではないので、トンデモ理論かもしれませんが。簡単に言うと、みんなと一緒になって、みんなで考える、これが梵我一如であるというように考えて良いと思っています。

A: なるほど、わかったような気がします。

B: なぜ書は美しいのでしょう。絵画はわかります。人や自然を描き、色までついている。つまるところ、書は、自然から、美しさのみの特徴を抽出したものであると考えています。そして、そこには本質が詰まっている。それこそが大日如来を「賢く」する法であるとしたら。

A: 書が自然を紐解くということですか。

B: 今日の雨を眺めて、同じ美しさの書が書けたら。そこには雨の本質があります。その書を多くの人が見ることで、我々は学習し、更新されてゆく。大日如来は「賢く」なり、我々人類は次の段階へ進むのです。

A: そうやって見ると、今日の雨は輝いています。

B: 人や自然を美しいとおもうこと、それが真に書を理解するということ。子供の頃は、雨に負のイメージはなかった。植え付けられた感覚では、本質から遠ざかるのです。その純粋な気持ちをいつまでも忘れないでおきたいものです。

(執筆担当: F. H.)

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