東北大学学友会書道部

書道のコラムです。


書道コラム


 

高野切第三種の特異性

高野切は和歌山県は高野山に古筆の一部があったことからその名が付けられ,その内容はいわゆる古今和歌集です.初の勅撰和歌集というように歴史の授業で学んだ人も多いのではないでしょうか.

筆者は紀貫之と伝えられていますが,紀貫之が200年近く生きなければ計算が合わないため,実際の作者は異なるでしょう.3人の筆者が高野切を書き,それぞれに第一種,第二種,第三種と名付けられています.それぞれの確かな筆者は未だ不明ですが,第二種は源兼行というのが通説のようです.第一種は藤原行経という行成の三男が有力です.

問題の第三種はどうかというと,若い書風だから歳が若いとか,女性らしい書風から女性だろうなど様々な言われていますが,想像の域を出ません.

右の図にも示したこの第三種はだいたいかな教科書の一番最初に載っていて,初学者の手本として扱われることが多いようです.漢字書で言う九成宮とか孔子廟などの楷書に近いイメージを持つ方も多いのではないでしょうか.

潤渇,抑揚豊かな高野切第一種,軽快なリズムと造形の巧みさが光る関戸本,はたまた天真爛漫な暢達した線が魅力の香紙切などに比べて,この高野切第三種の人気は著しく低いです.潤滑は乏しく,平凡な字形,連綿も短く,創作の参考になるところがありません.一行の文字も少なく,全体として見たときのインパクトも少ない.変体仮名のバリエーションが少ないということも,習いやすいという以外の利点がありません.

こんな第三種ですが,ひとつだけ他の古筆を遥かに凌駕するものがあります.それが「線」です.この線は古今東西の書を比べても,抜群に素晴らしいものです.何が素晴らしいかというと,このような複雑な筆路のものであって,完全なる中鋒で書くことができています.これは驚異的なことです.私はこの第三種を書いていると,曹全碑や孔宙碑といった八分隷を想起します.

最近の書道展に見るかなを考えてみましょう.それは墨の潤渇を大胆につければ上手く見えます.かなといえば連綿で,流麗な連綿が作品を際立たせます.散らし書きなど章法の工夫はいくらでもできます.その結果,展示会に行けど同じようなものばかり.かな書道の固定概念に少し囚われ過ぎではありませんか? 「かな」ではなく,「書」という括りで見た時に,墨の潤滑,連綿,散らし,そのどれもが必須な要素ではありません.九成宮はそれらの要素を微塵も持っていませんが,文句のつけようもない素晴らしい書作品であるわけです.必須な要素は「良い線」と「確かな字形」なのです.それらに拘りすぎて,線がおろそかになっている作品の,なんと多いことか.

高野切第三種はこの病気を直してくれる特効薬です.線と字形にひたすら専心することができます.また,そればかりでなく,ある種のモダニズムにも貢献するかもしれません.平安貴族が中国の貴族や西洋の貴族と異なる点は,華やかな美しさだけでなく,簡潔の美というものを持っていたということです.三十一音に収める和歌などはその象徴でしょう.このセンスは20世紀以降ヨーロッパで始まったミニマリズムに通じるものです.様々な理論によりルール付けられた現代のかな書道(モダニズム)から脱却するということ,これこそまさにポストモダニズムであり,高野切第三種は最新鋭の芸術なのではないかと思うのです.そう考えると,第三種もなかなか未来的に見えてきませんか.


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